北海道の片隅でコソっとつぶやく

いろんなところでひろったガラス瓶や陶器を紹介しています

石狩浜ビーチコーミング 202307 

真夏の石狩浜に久しぶりにボトル目当てでビーチコーミングに行ってきた。

熱い。そして天気も不安定で遠くでは雷鳴。
何もない誰もいない平日の海で雷に当たって死んだら数時間は見つからないなと思いながら砂浜を数キロうろうろ。誰もいない。



 

ほとんどがペットボトル。ガラスが少ない。
あっても中国の瓶やらロシアの瓶。

あれ、こんなにガラス瓶って流れ着いてなかったっけ。

そんな中、数キロ歩いてほぼ漂着流木ばかりのところで
1個だけ無造作に落ちている瓶があった。

アンバー。小さく平べったそう。これは...いいかも。

 

手に取るとウィスキーのポケット瓶。
しかもSUNTORYではなく、大好きなNIKKA。しかもフタつき。

 

しかも現行はBLACK NIKKAシリーズしかニッカのポケット瓶は売られていないので古いはず。

ここ数か月で最もうれしかった。

これは欲しかったやつ。

NIKKAの昭和30年代の「Rare Old」ポケット瓶。

大事に大事にお持ち帰り。

 

かもめでかい、しかも一定の距離意を空けて絶対近寄らせてくれない。でもこっちをみている。
帰り際スコールのような雨は大型ショッピングモールに逃げてぎりぎり退避できた。

帰宅後、瓶を洗い吟味。

底エンボスは擦れていて年月を感じさせる。

ナーリングなしで丸正マークあり。

そしてRear Old エクストラのポケット瓶ということらしい。昭和37年(1962年)の酒税法改正で原酒割合が5%から10%になった時期以降のもの。

竹鶴政孝はそれまでも大衆用のRear Oldにおいても法規制の5%ぎりぎりまで原酒を詰め込み売っていたが、酒税法改正で原酒割合を10%まで引き上げることができるようになり、本格スコッチウィスキーを2級酒でも目指していた。

蓋は黄色いメッキが日焼けで色落ちしているがわずかに金色が残る。

NIKKAは林檎ジュースから資金を作ってウィスキーを作ったということで、ご先祖様であるニッカ林檎汁(大日本果汁)と撮影。この瓶も以前見つけたもの。

神薬より大事な瓶。

 

暑い中頑張ったかいがあった。

わかもとのエンボスの謎 NAGAに迫る

わかもとの瓶底エンボス

わかもとは前にも書いたが海や炭鉱などでたくさん入手してきた。

底のエンボスは3段に分かれ上段は数字、中断はNAGA、下段は数字の「9」一文字、それか数字の「9」一文字とその9の左右横に数字があるタイプになっている。

NAGAと下段の9が共通である。

 

NAGAの意味は恐らく創業者長尾欽弥の長尾からNAGAとしているのではないかと思う。通常は工場別記号であることが多いが、現在のデータベースではNAGAはヒットしない。

 

上段の文字は1から21までのものを所有している。


公式ページでは昭和11年に陶器製のコルク栓瓶になっているが、ガラス瓶と並行して陶器瓶も採用されていたのではないだろうか。

 

ガラス原料の珪砂も戦前は輸入に依存していたが、国際関係が悪化するとともに輸入が停止。国産原料に切り替わっていった。


日本が国際連盟を脱退して、国民総動員法が施行され原料の輸入が困難になった昭和13年~14年以降ガラスの回収や再利用が推奨されるようになる。

 

一般的に昔のものほど粗悪であるイメージがあるがそうではない。この時期のものが粗悪であり、これより前のものはそれなりに品質が良いのである。開戦の2年ほど前から戦後直後のものは軍用品の一部以外は粗悪である。この時期のガラス瓶では気泡やエンボスのズレ、透明度の違い。成型の悪さによる小さな穴や突起が発生しているものが多々ある。

原料に異物が混入すれば茶筋が発生し、作り手を含めて生産体制が整わない場合は気泡が入る。
不純物が多いとウランガラスのように発光が見られる。(ウランガラスほどのはっきりした発光ではない。)

わかもとの茶色瓶においては色の違いやエンボスのズレが見られる。右下左から2個目はエンボスがかなりズレている。左上が上段1のもの右下は上段21のもの。

極端に薄いものやアクア色のもの、珪砂に鉄分が多いとガラスは青くなる。
透明にするためには原料に転嫁して透明にするためコストがかかる。

わかもと瓶の底のエンボスが年月を表しているのかとも思っていたが昭和4年(1929年)4月から販売していることを考えるとロットナンバーのようなものが上段なのかな。なにか手がかりがあれば。

 

 

誰かこの瓶の事を教えてください!!戦前のカレー粉ヒットカレー

まあ、ヒットカレーと書いてあるんですが、資料や情報が無く。

本当にヒットしたのかおまえ!

ホームランカレーに負けたのか.....。ヒットじゃなぁ......。

何か知ってる方。コメントください。

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わかもと飲めば疲労も回復 増産できます戦争も

炭鉱のあった山や廃村を歩くと戦前「わかもと」が大量にみつかる。

昭和16年2月のわかもとの広告は

「低温無病 錠剤わかもと 燃料節約時代の低温生活で弱点を暴露し、感冒だ肺炎だと騒ぎ出すのは旧体制です。 翼賛家庭は錠剤わかもとを用意して耐寒栄養の充実や虚弱体賦活を図り、強靭な体力を錬成し低温生活を無病で悠々突破!」

ここ北海道ですよ。わかもと飲んで暖房付けないで乗り越えるみたいなことを言ってるが無理です。


昭和19年2月の広告は
「決戦作業力  夜を……日に継いで増産に挺身する職場の戦士はビタミンBの大量補給が必要。疲労素(乳酸)の排除が促進されますから、身心機能は著しく敏活となり能率はモリゝ上昇  空瓶持参を!」

炭鉱で増産増産言われてたんでしょうね。
日本国中で戦時増産と叫ばれてたんですよ。3交代とかで石炭掘ってたら疲れる。十分な食事もなかったでしょうし。
こんな広告ばかり見て、「わかもと」のんで頑張ってたんだろうなあ。

資源枯渇してガラス瓶も無くなって「持参してね」って書いてある。

ほんと昔の炭鉱関連の山を歩くとわかもとだらけ。10本以上はひろってます。首のところのわかもとエンボスがあり右読みなんですけど戦前から戦中のものだと思います。瓶の色の濃淡も一定じゃなくて。この瓶は丈夫らしく割れてるものは見たことない。陶器製も見たことないなあ。
洗うときれいなアンバーなのでついつい持ち帰ってきてしまう。    
空知

 

 

 

 

 

 

月寒に大日本帝国陸軍があった頃 歩兵第25連隊の除隊記念盃

つきさっぷ郷土資料館(豊平区月寒東2条2丁目)周辺は歩兵第25連隊があった場所だ。
月寒東1条3丁目から月寒東1条8丁目くらいまで陸軍の施設が立ち並ぶ場所だった。
今でも一部、自衛隊施設がある。下の年表を見るとわかるが歩兵第25連隊は日露戦争満州事変、日清戦争と奔走し最後は北海道を守り切った歩兵連隊だった。

1896年(明治29年屯田兵を母体に第7師団創設され月寒へ
1904年(明治37年日露戦争に従軍
1905年(明治38年日露戦争終結
1917年(大正6年満州駐留
1919年(大正8年) 帰還

1920年大正9年)北部沿海州に派遣

(今でいうウラジオストックの北、縦長に日本海に面する広大な地方。)
1921年(大正10年)7月 - 帰還。

1932年(昭和7年満州事変参加
1939年(昭和14年)5月  ノモンハン事件に参加。
1940年(昭和15年)10月 帰還

1939年5月に第7師団編成担当で既に新設されていた樺太混成旅団に編入

1945年(昭和20年)
2月28日 - 樺太混成旅団は、歩兵第306連隊(第30警備隊改編)を加え、第88師団に改編。
8月15日 - 終戦
8月20日 - ソ連軍が真岡に上陸、攻撃されたため応戦する(樺太の戦い)
8月23日 - 停戦協定が成立、日本軍最後の戦闘を終える

ということで今回は軍盃。

戦前の日本では、兵役を終えて除隊するときに知人親類に兵隊盃と呼ばれる盃を配る習慣がありました。盃内に配った人の名前や配った理由、「戦勝」だとか、「除隊記念」とかが入っており、金文字を使用したり国旗などが描かれています。明治初期からすでにあり、日露戦争満州事変の頃までの習慣で昭和恐慌以降は軍が除隊や帰還に際する祝賀を盛大に行わないよう指導したため作られなくなりました。日中戦争は日米開戦を経て第二次大戦の終戦まで続き祝賀ムードは全くありませんでしたから、この軍盃も意外と古いものかもしれません。
海で見つけると文字が消えてしまうんですよね。 小樽

除隊記念 清水 忠節 歩二五

 

 

 

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樺太のオットセイ配合の酒 戦前の滋養酒「オットホル」のガラス瓶

今回のガラス瓶「オットセイ」のお酒「オットホル(OTTHOL)」です。


戦前、樺太海豹島(からふとかいひょうとう)ではオットセイの睾丸や陰茎を干したものが強壮剤として知られていたらしいです。


今と同じように戦前の人々も健康にはとても関心が強く、滋養に効くお酒といえば「養命酒」が有名ですが実はほかにもたくさんの滋養酒がありました。

浦部一次は、北海道で味噌や醤油を作る家に生まれました。(一説には屯田兵だったとの話もあります)樺太に渡り水産庁にオットセイの肉および内臓の払い下げを交渉、 1935(昭和10)年会社を立ち上げ、樺太豊原工場を設立。薬味酒「オットホル」を製造開始したのです。

薬味酒『オットホル』は、販売してすぐに大変な評判となり1938(昭和13)年には東京都渋谷区に営業所を開設、国内外で好評を博し養命酒に匹敵するほどの人気でした。

おそらく日米開戦直前の昭和15年までは順調だったと思われます。
終戦まで製造していたらしいですが、養命酒などは薬局などを販路として細々と売られていたらしいので同じだったとおもわれます。

1945(昭和20)年8月、太平洋戦争の終戦により、原料と工場があった樺太での利権を失い、製造中止となりました。

9年後の1954(昭和29)年オットセイを原料とした製品の製造販売を再開しました。今でもヴィタリス製薬という社名で存続しています。

戦前でも英語は右読み。拾った時は何て読むのかわからなかった。
「OTTHOL」最初は「LOHT TO」だと思って海外サイトを探してた。
綺麗な深い紫色のガラス瓶。ポケットボトルサイズ。

気泡や細かいくぼみがある。

#北海道 #お酒 #樺太 #昭和 #酒 #戦前 #ビーチコーミング #戦前のガラス瓶

 

 

 

極東練乳(のちの明治乳業)が手稲にあったころ(極東練乳の八角ガラス瓶)

 

明治乳業の一方のルーツである明治製糖は、1917年(大6)房総練乳に資本参加。

房総練乳は1920年(大9)東京菓子に合併、東京菓子1924年(大13)明治製菓

商号変更する。


他方、北海道の札幌練乳場と静岡の花島練乳場が合併し1917年「極東練乳」を設立。
軽川駅(現在の手稲駅)前付近に第一農場が設けられた。

 

しかし、極東練乳は不況で業績悪化。
そのため1935年(昭和10年)明治製菓が経営に参加。

戦時の統制強化の中で1940年(昭15)明治製菓は製乳部門を分離独立させ経営を極東練乳に委任、商号を明治乳業とした。

 

写真の瓶は極東練乳のエンボスがある八角ガラス瓶。

文字は左読み。
ガラス瓶の品質は物資不足になった昭和15年頃から落ちるが、この瓶はそれより前のものであるため気泡もちょっと入ってはいるが、なかなかの一品。